門下生メーリスから
「ゴー宣」感想のご紹介です!
ようやく水曜日にSPA!が買えるようになりました。
SPA!「ゴー宣」第20章、読みました。
戦争論の帯「戦争に行きますか?それとも日本人やめますか?」が、
ルソーの社会契約論の一節と同じ意味の文章だった、というのはゾクゾクしました。
ルソーの社会契約論が好きで、よく取り上げている筈の左翼も、
何故かこの一文に関してはスルーしているということのようですし、
SEALDsなんて、その時の「気分」で「ミンシュシュギトハナンダー!」って言ってるだけで、
中身ペラッペラだったということを改めて感じますね。
右派も上っ面だけということでは左派とどっこいどっこいですし、
自分達の今がこうしてあることの意味を、
本気で考えてみたことがある人は、どれほどいるのだろう、と、
自分のことも自戒しつつ思います。
ブラジルの奥地の裸族も、センチネル島の先住民の部族も、
現代の国民国家とは隔絶されたところに生きている訳ですが、
国民国家と無縁に生きていく、ということは、
まさにこういうことなんだな、と感じます。
「水と安全はタダ」なんて幻想も、
災害などの緊急時にはあっという間に崩壊します。
それでも、国民国家としての機能があるので、、
他国と比較しても迅速にライフラインの復旧が始まります。
このことだって、決してタダではない訳です。
そして、当時の知識人達の戦争論(というか、小林先生がテーマとして挙げた「個と公」)に対する批判も、
改めて読むとイカれていますが、大江健三郎氏の批判もイカれてましたね。
大江氏の中で「公」と「権力」がズレる時、という想定は無かったのでしょうか。
更に、「私」+「私」+「私」・・・の総和が「公」になるなんて、無茶苦茶過ぎます。
「公」「個」「集」「私」・・・こうして見てみると、
今の日本は「集」と「私」に大きく大きく偏っていますね。
その中で、幼い子供を救ったボランティアのおじいちゃんも出て来たりするのですから、
「公」の為に「私」を滅することが出来る人はまだいるということになりますね。
特攻隊のように、死に対する恐怖(=私)を捨てて公の為に行動出来る人なんて、そうそういるものではないと思います。
自分にも、正直、そんな自信があるかと問われたら躊躇するのが正直なところです。
それでも、新幹線の事件で我が身を呈して乗客を守ろうとした梅田耕太郎氏には、やはり敬意を表しますし、
「コペル君」的な態度が持て囃される風潮はおかしいと思ってしまいます。
いつも、自分の中の卑近な「私」との葛藤です。
「戦争論シリーズ」今後とも楽しみにしております。
戦争論シリーズ以外の、描くべき喫緊なテーマの時のゴー宣も、同じく楽しみにしております。
(皿うどんさん)
『戦争論』が描き出した「個と公」は、人間の本質を問う普遍的テーマである以上、これから何十年経っても語られ続けることでしょう。
当時の知識人が、ほとんどそれを理解できない紛い物だったという事実と共に。